靴底踵に埋め込まれた蹄鉄型金具が、カツカツと静まり返った廊下に響き渡る。 
憂鬱そうに窓の外をみやれば、今日はバカバカしいくらいの晴天であった。 
透明なガラスを通して燦々と降り注ぐ太陽の光が大理石の廊下に一定の距離を置いて美しい光の絨毯を何枚も作りあげ、その上を歩く度新調された漆黒の制服にふんわりと熱を与えていた。 
ここはヘルマン・ゲーリンク街にある新総統官邸の2階東側廊下。この場におおよそ似合わないような小柄な青年が全神経を研ぎ澄ませながら歩く様は、まるで敵陣にでも乗り込んでいくかのようだ。 
あと数メートルも歩かない内に、新しい仕事場となる執務室に到着する。 
最後の光の絨毯を歩く若い親衛隊の金髪がユラリと揺れて、その歩みを止めた。 
(ここが、ディーヴァのシュヴァリエのいる部屋・・・) 
深く被った軍帽から覗く朱色の瞳は、一枚の重厚なドアだけを見据えたまま動かない。その青年の脳裏に、この官邸に来る前の記憶が蘇った。 

『いいかサヤ、これからお前はアマデウス・ヘルダーリンとしてディーヴァの側近であるマルティン・ボルマンの秘書として働いてもらう。もっと君に情報を伝えたいのだがあいにくまだ一度も彼をみたことがない。私も既にナチ党の一人として動いているから、分からないことがあればすぐに私の処にくるのだぞ』 
灰緑色の制服に身を包んでいるデヴィッドは、一束のナチに関する資料を目の前のサヤに持たせた。 
『ヤツの下にいれば、必ずディーヴァと接触する機会がもてる。目的を悟られぬよう慎重に動け。利用できるヤツはどんな手を使ってでも利用するんだ。まずはマルティンに取り入ることだけを考えてくれればいい、後は新総統官邸に着けばおのずとやらなければならいことが分かってくるハズだ。私は後から向かう』 
『わかりました』 
サヤが機械的な返事をすると、デヴィッドは祈るような眼差しを彼女に送った。 
『君は我々の希望だ・・・』 


(私は彼らの希望・・・。なんとしてでも、この時代にディーヴァと決着を・・・) 
執務室のドアを見続けるその青年こそ、男性に扮したサヤであった。 
彼女は一呼吸おくと、静かに木目の美しいドアを2回ノックする。すると中から「入りたまえ」という無感情な声が返ってきて、サヤはドアノブに手をかけた。 
「失礼いたします」 
極力声色を下げて素早く部屋の中に入ると、つかつかと部屋の中心まで歩いていった。 
「本日より、ボルマン上級大将専属秘書に着任しましたアマデウス・ヘルダーリンと申します。階級は陸軍少佐であります」 
見事な敬礼をしながらサヤは早口で自分の上司ともなる敵に挨拶をした。だが、机に座っているマルティンであろう人物は、何枚もの書類を目の高さに上げて中身を読んでいるらしく、返事はおろか、顔すら見えない状態だった。 
サヤは一寸気まずい雰囲気になりもう一度声をかけようと口を開いたが、その前にパサっと紙が落ちる音と同時にマルティンの顔が現れた。 
「女を秘書にした覚えはないぞ」 
開口一番そう言った彼の顔は、一言で表すなら「美人」である。ほんの少しつりあがった瞳はターコイズ・ブルーに輝き、すうっと通った鼻筋に薄い唇がよく似合っていた。亜麻色の髪はきっちりと撫で付けられていたが、その所為でとても神経質そうに見える。容姿だけは30歳前半を思わせるが、彼がシュヴァリエに列せられてからどのくらいの月日がていいるのかは分からなかった。 
サヤはもっと年上の男を想像していたので、その現実とのギャップに少々驚きを隠せないでいた。 
「失礼ですが、自分は女性ではありません、上級大将」 
「年は?」 
「18歳であります」 
「・・・若干18で少佐とは大した小僧だな。アマデウス・ヘルダーリンね・・・」 
とマルティンはいきなり席を立つとおもむろに後ろの棚から一枚のレコードを掴み取ると蓄音機に乗せて、その上から針をそっと落とした。 
予告なしに流れ出したオペラに、サヤは吃驚してマルティンを見つめる。彼はアマデウスの顔みてニヒルな笑顔を作った。 
「『魔笛よりアリア・夜の女王』は知っているかね?」 
「いいえ」 
サヤは首を振った。 
「モーツァルトのミドルネームを持つ少佐が知らないとは、これは以外だな。『復讐の炎は地獄のように我が心に燃え』という有名なフレーズも?少佐が昔聖歌隊に入っていたということを耳にしていたのでな、音楽について色々と話が合うと期待していたのだが・・・残念だよ」 
「14歳まで聖歌隊に入っていましたが、その年に去勢手術を受けさせられ、以来自分は音楽から離れました」 
「それで女のような容姿なのか。妻を娶り子を設けなければレーベンスボルンに一生寄付をしなければない。少佐と俺はその意味じゃあ似たもの同志だな。せいぜい好色の幹部にこの小さな尻を奪われないよう心かけることだ」 
マルティンはアマデウスの背後に廻ると彼の尻をパンと叩いてケラケラと笑い出した。 
極悪非道で部下には辛辣にあたるマルティン、という噂を耳にしているサヤにとって以外な彼の言動に目を白黒させていると、ドアがガチャリと開いた。 
「遅いぞ少将」 
「申し訳ありませんボルマン上級大将」 
と二人の前に優雅に歩み寄ってきた男に、サヤは目を奪われた。 
女神のような美しい容姿、雪のように真っ白な肌に映えるのは月色の髪。エメラルドのような瞳を縁取る睫毛は長く、そこに妖精がとまっていても不思議に思わないだろう。形のよい唇は艶を放ち、男でもドギマギしてしまうような優美さをかもしでしていた。 
「ソロモン、今日から俺の専属秘書になったアマデウス・ヘルダーリン少佐だ。仕事についてはお前から色々と教えてやってくれたまえ。俺はもう元帥に会いに行かねばならないのでね。では少佐、今晩は少佐の為にささやかなパーティを開く予定だ。その時にまたゆっくり話をしよう」 
マルティンはきびすを返すとさっさと部屋を出て行ってしまった。 
パタン、と閉じられたドアから目を離せば、視界にソロモンと呼ばれた青年の美しい笑顔があった。 
「君も可哀想な部署に配置されてしまいましたね。上級大将はいつもふざけているように見えますがとても厳しい方です、どうぞ慎重に仕事をなさってください・・・といっても電話を繋いだり、僕に書類を運んだりする雑用しかありませんが」 
と言ってクスリと笑うソロモンには、下の階級を見下すという雰囲気はまったくなくむしろ友好的である。サヤはその物腰の柔らかい人物の出現により、いままで緊張させていた神経を少しだけ緩めた。 
「立ち話もなんですから、これからの仕事の話も含めて僕の執務室でお茶でもしましょう」 
たおやかな笑みを見せるソロモンに、サヤはこの終始なごやかな空気に対応できずにいた。 
彼もまたディーヴァのシュヴァリエの一人であることを知らないサヤは、優雅に廊下を歩いていくソロモンの綺麗な後姿をぼんやりと見つめながら彼の後を付いて行った。 



マルティンの執務室程ではないが、それでも十分すぎるくらい広いソロモンの執務室に通されたサヤは、彼に進められるまま座り心地の良いソファに腰を下ろした。 
「少し待っていてください、今お茶をお持ちしますから」 
ソロモンはふわりと微笑むと、部屋の奥にある簡単な沸騰室が設けられている小部屋へと歩いていく。サヤは緊張したまま目だけをキョロキョロと動かし、予想もしていなかった展開に終始胸をバクバクさせていた。 
やがて紅茶の爽やかな香りと共に、銀の盆にティーセットを乗せたソロモンが戻ってきた。樫の木目が美しいコーヒーテーブルにそれを置き、優雅な手つきでサヤに紅茶を差し出す。 
優しく揺らめく紅茶の湯気が、覗き込んだサヤの顔にほのかな暖かさを運んできた。 
「紅茶は珍しいですか?」 
と唐突に聞かれ、サヤは背をピンの伸ばした。 
「申し訳ありません」 
一気に緊張の糸を張ったサヤに、ソロモンはふふふと笑った。 
「謝る必要はありませんよ、アナタは面白い方ですね」 
エメラルドの瞳を細めて己を見つめてくるソロモンに、サヤは不覚にも顔を高潮させる。 
「さぁ冷めないうちに召し上がってください、お菓子もどうぞ」 
サヤはガラスの皿に綺麗に乗せられたクッキーを食べたかったが、あまり子供じみた行動はできず代わりに紅茶をコクリと一口飲んだ 
「・・・おいしいですね!」 
「ありがとうございます。上級大将は紅茶にはうるさくて、淹れ方を練習している内に自分でも色々と凝ってしまったのですよ」 
サヤは紅茶には詳しくなかったが、基本となる茶葉の中にもう一品違う種類の茶葉を混ぜ、まろやかさを出しているのだと思った。繊細な味と香りは、今まで飲んできた紅茶とは比べ物にならない美味であった。 
こうしてサヤはソロモンと午後のひと時を過ごすと(勿論、仕事の話が大半だったが)ソロモンに連れられて、今日から過ごすことになる寝室へと案内された。 
「ここがアナタのお部屋になります。分からないことや困ったことがあればこの内線を使ってください。しばらくアナタを担当してくださるビズドウ少佐が直接電話を受けます」 
ビズドウの名に、サヤは一瞬隠れた眉をピクリとさせた。 
ビズドウは、デヴィッドがファミリーネームとして使用しているものだ。サヤはデヴィッドが常に自分と連絡を取れる位置にいることを再確認して、内心ほっとため息をついた。 
「少佐、こちらへ」 
ソロモンに呼ばれサヤが歩いていくと、彼はベッドの上に置いてある真新しい勤務服を彼女がよく見えるように広げてみせた。 
「普段はこちらの制服を着てください。式典や行事の時は今の黒制服でお願いします。そして・・・」 
灰色の勤務服を丁寧に置き、今度は真っ白い上着を手に取った。 
「このサマードレスは主にパーティや華やかな式典の際に着用します。今夜はアナタの歓迎パーティを開きますので、これを着てくださいね」 
「了解しました」 
その白い上着を受け取りながら返事をすると、ソロモンがにっこりと笑った。 
「アナタの声はとても綺麗ですね。まるで森でさえずる小鳥のようだ・・・・・・。では少佐、また今夜会いましょう。それまでゆっくり休んでください」 
よく響く澄んだ声と共に、彼の姿も扉の向こうに消えた。 
パタンと閉じられた扉から目を逸らすと、サヤはベッドの端に座ってぼんやりとサマードレスを見つめる。 
『アナタの声はとても綺麗ですね』 
ソロモンが言った言葉が頭の中を、オルゴールのように何度も繰り返される。 
ソロモンが、そう言ったのは、ヘルダーリンは以前聖歌隊に入っていたということを知っている為だと思うが、サヤは一寸の不安がよぎった。 
「まさか、もう私が女だってことがバレているんじゃ・・・」 
だが、もしそうであれば自分はここにはいない。すぐに取り調べ室に連行され殺されるのがオチだ。殺されるならまだしも、無理矢理罪を着せられた女性は、その場で将校たちに強姦されるという悲惨な事実も聞かされていた。 
サヤは顔を蒼白させると、絶対に任務を遂行するまでは己の性を隠し通さなければと改めて心に誓う。 
その時、リーンと電話が寝室に鳴り響き、サヤは慌てて受話器を取った 
 



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